レストラン『sio』のオーナーシェフ鳥羽周作さん。
鳥羽周作さんは、現在は主婦ですが、元Jリーグの練習生だったことをご存知でしょうか?
かなり異色の経歴ですよね!
今回は、鳥羽周作さんのサッカーの経歴や、過去に所属していた大学やチームについて調査しました。
最初に鳥羽周作さんのプロフィールです。
氏名 :鳥羽周作
生年月日:1978年5月5日
出身 :埼玉県出身
職業 :シェフ
鳥羽周作さんは、料理人としての父親の背を見て育ち、物心ついたころには自らも“モノづくり”が好きだったそうです。
仕事として一度は別の職種についたそうですが、自分の好きなことを生業にしたいと、料理の道へ転向されたそうです。
東京・幡ヶ谷(現在は神楽坂へ移転)の「DIRITTO」で3年、同じく東京・青山の「Florilege」で2年の修業を積み、2016年3月より「Gris」のシェフに就任しています。
2018年に代々木にオープンさせたsioというお店は、ミシュランガイド東京で4年連続1つ星を獲得する名店に成長させています。
現在はシェフとして活躍されている鳥羽周作さん。
しかし、シェフになる前は、Jリーグを目指しサッカーをしており、その後小学校教諭に転職されました。
異色の経歴を持つ鳥羽周作さんですが、サッカーの腕前はどれくらいだったのでしょうか?
今回は、鳥羽周作さんのサッカーの経歴をまとめました。
鳥羽周作さんがサッカーと出会ったのは、小学2年生のとき。
鳥羽周作さんのご両親も、なにかスポーツをやらせたいと思っていたそうです。
また、周りの友達がサッカーをしていたこともあり、地元のサッカー少年団に入団したそうです。
鳥羽周作さんの出身小学校は
戸田市立戸田東小学校
です。
小学校時代にサッカー少年団に入った鳥羽周作さん。
走ることが得意だった鳥羽周作さんは、瞬く間にチームのエースになったそうです!
小学5年生の時、鳥羽周作さんがサッカーの道を志すことになった大きな出会いがありました。
それは出場した大会に偶然来ていた
三浦知良選手
だったそうです。
「いつか、カズさんと一緒にプレーしたいです!」と自分の気持ちを伝えたところ、三浦選手は
「待ってるよ。」
と答えてくれたのだそうです。
その一言がきっかけで、鳥羽周作さんは三浦選手といつかプレーすることを目標に、サッカーに打ち込み続けたそうです。
鳥羽周作さんは、
戸田市立戸田東中学校
へ進みます。
中学時代も、三浦選手とのプレーを夢見て、ただただ練習に打ち込む日々が続いたそうです。
両親からは、成績を落としたらサッカーを辞めさせるといわれていたそうですが、高校は偏差値も高い高校に進学しているので、文武両道でサッカーも勉強もそれぞれ励んでいたことがわかります。
鳥羽周作さんは、戸田東中学校のサッカー部にも所属していたようで、戸田市議会議員の佐藤太信さんの先輩に当たるそうです。
広報戸田市2月号です。広報の表紙に掲載されております鳥羽シェフは私の戸田東小学校、戸田東中学校、そして同じサッカー部の先輩です!とだPR大使の就任おめでとうございます!
https://satotakanobu.com/
サッカー少年団に入って、瞬く間にエースになったということなので、サッカー部でも大活躍だったに違いありません。
鳥羽周作さんは、
さいたま市立浦和南高校
に進学しています。
さいたま市立浦和南高校といえば、サッカーの強豪校です。
サッカーの強豪校でもありながら、偏差値62の、頭のいい高校でもあります。
浦和南高校のサッカー部は、数多くのサッカー選手の出身校でもあります。
・永井良和選手
・永田拓也選手
・菅又哲夫選手
・斉藤和夫選手
・関口久雄選手
・大熊清選手
といった、日本代表選手や、監督としても活躍された選手もいらっしゃいます。
鳥羽周作さんも、先輩方の後を追い、自分の夢を叶えるため、日々精進されていたのでしょうね。
鳥羽周作さんは、大学は
仙台大学体育学部
に進学します。
仙台大学は、偏差値は低めですが、サッカーの強豪校です。
鳥羽周作さんは、サッカー部に所属し、練習に励みました。
しかし、大学時代の鳥羽周作さんは、自身で「不毛の時代」だったと語っています。
一方で、高校卒業後に進学した東北の強豪校、仙台大学では、試合に出られない日々が続き、遊んでしまうなど「不毛の時代」だったと思います。
ーhttps://note.jfa.jp/n/nffe5a9091325
強豪校だけに、各地からレベルの高い選手が集まっていたのでしょうね。
高校までと違い、大学ではある程度自由な部分もあるため、試合に出られない悔しさを、遊びで発散していたのかもしれませんね。
大学ではサッカーを続けながら、小学校教員免許も取得しています。
大学卒業後も、プロサッカー選手としての道は開けなかった鳥羽周作さん。
卒業後は小学校の先生になり、子どもたちにサッカーを教えていたそうです。
小学校の先生を選んだのは、
サッカー選手を目指すために、比較的時間が作りやすかったから
だそうです。
就職後も社会人リーグで、平日は週4回の練習、土日はリーグ戦という生活を続けていた鳥羽周作さん。
このときは、
Jリーグ横浜FCの練習生
としてサッカーに励んでいたそうです。
ちなみに、練習生になるには、チーム関係者のコネクションが必要とのこと。
鳥羽周作さんは、以前から横浜FCのファンだったそうで、練習生になったと思われます。
夢を叶えられなかったとはいえ、Jリーグの練習生になる事自体、かなり狭き門です。
そこまでのレベルになっているからこそ、鳥羽周作さんのサッカーのレベルは、プロ並みだったと思われます。
大好きで仕方がないサッカーの夢を追い求め、就職後もその夢を諦めなかった鳥羽周作さん。
しかし、鳥羽周作さんがサッカーを辞めることになったきっかけはなんだったのでしょうか?
鳥羽周作さんがサッカーを辞める決断をしたのは
大野敏隆さん
の存在だったそうです。
当時、大野敏隆さんは、プロサッカー選手として活躍しており、鳥羽周作さんと同い年。
「こんな人がいるなら、僕はプロになれないな。」と、彼のセンスに脱帽するとともに、自分の今の立ち位置を本能的に理解し、サッカー選手を目指すことをやめる決断をしました。
ーhttps://note.com/pirlo/n/ne4af26f3fcde
大野さんのプレーを見たことで、自分のレベルや、プロには届かないということを、思い知ったのでしょうね。
当時の心境を次のように語っています。
その気持ちに区切りをつけることに、言葉にならないたくさんの想いで胸がいっぱいになりました。
サッカー選手になれないなんて、正直認めたくなかった。
サッカー以外に何をしたらいいのかなんて、わからなかった。それでも、目の前には”サッカー選手にはなれない”という現実だけが突きつけられていました。
ーhttps://note.com/pirlo/n/ne4af26f3fcde
「人生で初めて、強烈な挫折を味わった」鳥羽周作さん。
最後の数年間は「サッカーで飯を食うのは無理かな」と思いながら続けていたので、しんどさもあったとのこと。
そこで、活躍している人を妬んだり羨ましがったりしている自分に気づいて、すごい「ダサい」なって。そんな自分に嫌気がさしてサッカー選手の夢に終止符を打つことにしました。
ーhttps://next.rikunabi.com/journal/20190523_p01/
サッカー一色だった人生から、今後の人生を見つめ直し、
コックコートを着た自分が、厨房で料理をしている姿
が鮮明に浮かんだそうです。
サッカーをしているときは、将来、どのチームのユニフォームを着て、どこのスタジアムで、どんな空の下で、どんな仲間とサッカーをしているか、について、全く想像ができていなかったそうです。
この経験からも、
目標を達成するためには、なりたい自分を鮮明にイメージすることが大切
と気づいたそうです。
サッカーを辞めた鳥羽周作さんは、心機一転、シェフの道を志します。
シェフの道へ進む際も、モチベーションになったのは、やはりサッカーだったようです。
自分はサッカー選手ではないけれど「何か」で一流になって、中田英寿さんみたいなプロの人と並んで話せる人になりたい、そんなモチベーションでこれからのことを考えていたんです。
ーhttps://next.rikunabi.com/journal/20190523_p01/
サッカー選手とは別の形で、中田英寿選手と肩を並べると決めた鳥羽周作さん。
その目標は達成し、なんと中田英寿さんはお店にも食べに来てくれたそうです。
ちなみに中田英寿さんは何度かお店に来てくれて、そこは夢が叶いました。自分が料理人になったきっかけを話したら中田さんは笑っていましたね。
ーhttps://note.jfa.jp/n/nffe5a9091325
鳥羽周作さんの人生には、かならずサッカーという存在が、道を照らしてくれていたのですね。
サッカーの夢は諦めた鳥羽周作さんでしたが、鳥羽周作さんのお子さんもサッカーをしているようです。
強制はせず、息子さんが主体的にサッカーをしたいと始めたようですね。
サッカーという共通言語ができ、喜びを噛み締めていた鳥羽周作さん。
息子さんとの絆もさらに強まりそうですね。